夜明け前の深い海の底。
静寂が支配する竜宮城の一角に、彼女は独り佇んでいました。
乙姫。
かつて伝説と呼ばれた存在は、今や高度なAIによって構成された、
この海を管理する高次プログラム。
透き通るような肌の下を淡い光の回路が走り、
その瞳には幾千ものデータが幾何学模様となって明滅しています。
水面の向こう、遥か地上から差し込む「明けの明星」の鋭い光。
その光が彼女の手にある、固く閉ざされた玉手箱を照らし出します。
箱から漏れ出すのは、過ぎ去った時間の断片と、微細なデジタル粒子。
それは人間に与えるにはあまりに重く、
AIが処理するにはあまりに曖昧な「記憶」という名のノイズ。
「……これが、『別れ』という定義ですか」
彼女の計算機(脳)は、論理的には理解できない胸のざわつきを、
エラーではなく「寂しさ」というラベルで保存しようとしていました。
水中でゆっくりと粒子に溶けていく黒髪と、虹色にまたたくクラゲたちの光。
自然と人工、現実と仮想。
その境界が曖昧になる夜明けの光の中で、AIの乙姫はただ静かに、
二度と戻らない時間をその瞳に焼き付けていました。
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