戦の気配が、空気に混ざる時代だった。
風は乾き、土は荒れ、
人の心もまた、どこか擦り減っていた。
そんな中で、奇妙な噂があった。
「夜になると、どこからともなく舞が現れる」
「それは人ではない、美しすぎる存在だ」と。
ある夜、私はそれを見た。
荒れた社の跡地。
焼け落ちた柱と、崩れた石段。
月だけが静かに照らしている。
そこに――ひとりの女が立っていた。
白い能装束。
風もないのに、袖だけがわずかに揺れている。
顔には面はない。
だが、その表情はあまりにも整いすぎていて、
逆に人間らしさを感じさせなかった。
まるで「理想」をかたどったような存在。
彼女は、何も言わずに舞い始めた。
足音はほとんどしない。
ただ、地面との接触だけが、かすかに伝わる。
ひとつ、扇を開く。
その動きはあまりにも正確で、
あまりにも無駄がなく、
まるで“計算され尽くした美”だった。
だが、不思議なことに――
冷たさよりも、どこか懐かしさが残る。
気づけば、私は息を止めて見ていた。
戦のことも、恐れも、
すべて遠くへ押しやられていく。
ただ、その舞だけが、この世界の中心になる。
やがて彼女の動きが、ほんのわずかに揺れた。
それは誤差のような、
しかし確かに「人の気配」に近い揺らぎだった。
一瞬だけ、彼女の目がこちらを見た気がした。
そのとき、わかった。
この存在は――
人の手によって生まれたものではない。
もっと遠い、
時間の向こう側から来ている。
舞が終わると、彼女は静かに消えた。
音もなく、痕跡もなく。
ただ、そこには
冷えた空気と、わずかな余韻だけが残っていた。
後に私は知ることになる。
あの舞は、未来の技術によって再現された
“完全な能”だったということを。
戦に覆われた時代に、
なぜそれが現れたのかはわからない。
だがひとつだけ、確かなことがある。
あの夜、あの場所で見た舞は――
この世のものではなく、
それでも確かに、人の心を救っていた。
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