あの夜のことを、うまく言葉にできない。
ただひとつ言えるのは、
あれは戦の時代の景色ではなかった、ということだ。
荒れた神社の跡。
崩れた柱と、苔むした石段。
誰もいないはずの場所に、
やわらかな光が降りていた。
夜なのに、不思議と暗くはなかった。
空から差し込む光は、まるで意思を持っているみたいに、
ひとつの場所へ集まっていた。
その中心に、彼女はいた。
舞を終えたばかりなのだと思う。
白い衣は静かに揺れ、
空気に残る余韻だけが、まだそこにあった。
彼女は、ゆっくりと面を外した。
その動きは、とても自然で、
けれどどこか現実から浮いていた。
手に残された能面。
そして、現れた素顔。
あまりにも整いすぎたその顔は、
人のものというより――
「誰かの理想」が形になったようだった。
目が、合った気がした。
ほんの一瞬。
でも、その中に確かに感情があった。
驚きでもなく、喜びでもなく、
ただ――少しだけ、安心したような表情。
「やっと来てくれた」
そんな言葉が、聞こえた気がした。
近づこうとした。
でも、足が止まる。
触れてしまえば、消えてしまう気がしたから。
彼女もまた、動かなかった。
ただ、こちらを見て、
ほんのわずかに微笑んでいた。
光が、少しずつ強くなる。
彼女の周りだけ、世界が違うみたいに。
やがて、その輪郭が曖昧になっていく。
最後に見えたのは、
手の中の能面と、
こちらを見つめる静かな瞳。
気づけば、光は消えていた。
残っていたのは、
冷たい空気と、壊れた神社だけ。
でも、不思議とわかっている。
あれは偶然じゃない。
あの舞も、あの視線も、
全部――誰かのためのものだった。
たぶん、あれは。
ずっと昔から、
ここで誰かを待っていたのだと思う。
そしてその「誰か」は――
少なくともあの夜は、
確かに、私だった。
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