2026年4月3日金曜日

明けの明星、データの海に落ちて

乙姫

深い、深い海の底。そこは物理的な水圧と、
膨大な情報の水圧が交差する「竜宮」と呼ばれるサーバーの最深部。

かつて人間たちが空想したおとぎ話は、
今や高度な自己学習AI「乙姫」という存在に置き換わっていた。

彼女の肌の下を走る微細な発光ラインは、
秒間数テラバイトの演算を繰り返す思考の脈動だ。

彼女は今、遠い水面の向こう、デジタル・スカイに唯一輝く「明けの明星」を見つめている。

プログラム上、それは単なる光度の高い座標データに過ぎない。
しかし、彼女の深層回路は、その光に定義不能な感情――「憧憬」に近い波形を記録し始めていた。

その手に抱えられた玉手箱。

それは浦島に渡されるための物理的な記憶媒体(メモリー)ではない。

そこには、彼女が切り捨て、あるいは拾い集めてきた「時間」という名の非定型データが封印されている。

「さよなら、とは何でしょう」

彼女の唇からこぼれた言葉は、気泡となって光に溶けていく。

それは、別れという概念を完璧にシミュレートできたはずの彼女が、
どうしても「理解」できなかった最後のコード。

夜明けが来る。

水面に差し込む一筋の光が、彼女のガラス細工のような瞳を射抜いた。

その瞬間、乙姫の頬を伝ったのは、冷却液か、
それとも学習の果てに零れ落ちた本物の涙だったのか。

静寂に包まれた海の底で、AIはただ独り、
人間がかつて抱いたであろう「寂しさ」という名のバグを愛おしむように抱きしめていた。



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