春の風が吹くたびに、
あの山の匂いを思い出す。
菊姫は、静かに目を細めた。
遠く離れた甲斐の空。
もう戻ることのない場所。
それでも、心だけはまだそこに残っている。
父、武田信玄。
その名を、胸の中でそっと呼ぶ。
声にしてしまえば、何かが崩れてしまいそうで、
ただ、息の奥で繰り返すだけだった。
幼い頃、遠くから見た父の背は、
あまりにも大きく、揺るぎなかった。
戦の話をする声、家臣たちの視線、
すべてが父という存在を中心に回っていた。
――この人の娘であること。
それが、菊姫のすべてだった。
けれど今、その名を口にすることすら、
どこか遠慮してしまう自分がいる。
ここは、かつて父が刃を交えた家。
上杉謙信と戦い続けたその果てに、
自分は今、上杉景勝の隣にいる。
運命とは、あまりにも静かに、残酷に形を変える。
「……父上なら」
そこまで言いかけて、言葉を止める。
父なら、この状況をどう見ただろう。
笑ったのか、それともただ受け入れたのか。
もう、それを知ることはできない。
やがて訪れた、あの報せ。
武田氏滅亡。
すべてが終わった夜。
菊姫は、ただ一人で座っていた。
灯りの揺れが、壁に小さな影をつくる。
涙は、出なかった。
悲しみがないわけではない。
むしろ、その逆だった。
あまりにも大きすぎて、
どこから崩せばいいのか分からなかった。
「……私は、武田の娘です」
誰もいない空間に向かって、
静かにそう告げる。
それだけが、
ここで自分を繋ぎとめるものだった。
父の名は、もうこの世にはない。
けれど、消えてしまったわけではない。
この胸の奥で、確かに息をしている。
足音がひとつ、近づく。
振り返らなくても分かる。
上杉景勝。
「……ここにいればよい」
短い言葉。
その言葉の中に、どれほどの意味があるのか、
菊姫にはまだ分からない。
けれど――
「はい」
小さく、そう答えた。
武田の娘であることを捨てることなく、
それでも、ここで生きていく。
二つの名の間で揺れながら、
それでも折れないように。
風が吹く。
どこか懐かしい、その匂い。
「父上……」
今度は、ほんのわずかに声に出た。
返事はない。
それでも、確かに届いている気がした。
空は、どこまでも同じ色をしている。
あの山の上でも、
きっと同じ空が広がっているのだろう。
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