2026年3月30日月曜日
風に残る、父の名 武田信玄の5女、菊姫
春の風が吹くたびに、
あの山の匂いを思い出す。
菊姫は、静かに目を細めた。
遠く離れた甲斐の空。
もう戻ることのない場所。
それでも、心だけはまだそこに残っている。
父、武田信玄。
その名を、胸の中でそっと呼ぶ。
声にしてしまえば、何かが崩れてしまいそうで、
ただ、息の奥で繰り返すだけだった。
幼い頃、遠くから見た父の背は、
あまりにも大きく、揺るぎなかった。
戦の話をする声、家臣たちの視線、
すべてが父という存在を中心に回っていた。
――この人の娘であること。
それが、菊姫のすべてだった。
けれど今、その名を口にすることすら、
どこか遠慮してしまう自分がいる。
ここは、かつて父が刃を交えた家。
上杉謙信と戦い続けたその果てに、
自分は今、上杉景勝の隣にいる。
運命とは、あまりにも静かに、残酷に形を変える。
「……父上なら」
そこまで言いかけて、言葉を止める。
父なら、この状況をどう見ただろう。
笑ったのか、それともただ受け入れたのか。
もう、それを知ることはできない。
やがて訪れた、あの報せ。
武田氏滅亡。
すべてが終わった夜。
菊姫は、ただ一人で座っていた。
灯りの揺れが、壁に小さな影をつくる。
涙は、出なかった。
悲しみがないわけではない。
むしろ、その逆だった。
あまりにも大きすぎて、
どこから崩せばいいのか分からなかった。
「……私は、武田の娘です」
誰もいない空間に向かって、
静かにそう告げる。
それだけが、
ここで自分を繋ぎとめるものだった。
父の名は、もうこの世にはない。
けれど、消えてしまったわけではない。
この胸の奥で、確かに息をしている。
足音がひとつ、近づく。
振り返らなくても分かる。
上杉景勝。
「……ここにいればよい」
短い言葉。
その言葉の中に、どれほどの意味があるのか、
菊姫にはまだ分からない。
けれど――
「はい」
小さく、そう答えた。
武田の娘であることを捨てることなく、
それでも、ここで生きていく。
二つの名の間で揺れながら、
それでも折れないように。
風が吹く。
どこか懐かしい、その匂い。
「父上……」
今度は、ほんのわずかに声に出た。
返事はない。
それでも、確かに届いている気がした。
空は、どこまでも同じ色をしている。
あの山の上でも、
きっと同じ空が広がっているのだろう。
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